【人について考える、連載コラム】 みんな違う傷を負ってるだけ

望まず強者たりうる、構造に投げ込まれて

とっくの昔に、か弱い女の子じゃなくなっていたことに気づいた。私は今年25歳になる。まだまだ自分では未熟なつもりでいるけれど、10代の子にとって私は年長者であるというだけで脅威たりうる。

 子供の頃、高校生は大人だと思っていたし、高校生の頃はもっと歳を重ねれば自動的に大人になれるものだと思っていた。逆に言えば、ただ歳をとったというだけで、幼い彼らにとって私は大人で、正しく、力を持った存在なのだ。事実としてそれほどの責任ある立場にいながら、これまで自覚がなかったことが恐ろしい。

 いつまでも、母の漕ぐ自転車に乗せてもらっていたお嬢ちゃんではいられなかった。守られるべき未成年の制服姿もとうの昔に失った。自分にそのつもりがなくても、こわくて強い大人に見えるようになってしまった。私たちは、大人であるだけで子供を萎縮させる。そうなってしまったのは、私たち自身のせいではないのに。

 私たちは、例え社会的弱者という肩書きをどこかの側面に持っていたとしても、誰かの目には強者に映る。100%の弱者も少数派もこの世には存在しない。全ての人が常にどこかの面で助けを求めているし、同時に常に他者を脅かしている。セクハラやパワハラや、顔見知り同士での性犯罪が人の関心をこれほど集めているにも関わらずなくならないのには様々な要因があるが、そのうち無自覚なものについては、自分が他者を威圧しうるという可能性への意識の欠如だ。最近では吉本興業の社長のパワハラ発言があった。社長という立場から「テープを回していないだろうな」と発言するのは、どんなに言い方を工夫したとしても場を和ませる冗談にはならないのだ。

 暴力の構造上、「暴力的でないようにしよう」と思っている内はだめで、「自分は自分の力ではどうしようもないことのために暴力的であるし、加害しているそのときに気づくことはできない」ということを自覚しなければならない。

自分が強いということを理解していなければ、誰でも加害者になりうる。強者の持つ対等の意識は傲慢だ。対等なものか。自分が対等に振る舞っているつもりだから対等でいられているだろうというのはあまりにも、他者の目線を欠く。

 後輩に対して、先輩後輩は気にしていないよと寄り添おうとしたとする。なんでも言い合える関係だよねと互いに了承があったとする。その上で、立場が違うことによる怯えが相手の潜在意識から拭えなければ?相手が自分の意思より場の空気を優先する性格で、実は傷ついていたら?対等なつもりでいたら、そんなことにも気づけない。力関係が不均衡である場面はいくらでも想像できて、恋人同士なら相手の方が自分に惚れているときは自分の意見が通るに決まっている。過剰同調性のある人には、期待を匂わせるだけで圧力になる。相手の感じ方だから、自分がどういうつもりで接するかは関係ない。相手の性格や感じ方を矯正する必要があると思うなら、あなたは何も理解しておらず、相手の尊厳をいっそう踏みにじっているとしか言いようがない。相手の心はコントロールできないから、構造を認め受け入れるほかない。一対一の関係だからどうにかなりそうなものなのに、どうにもならないのだ。私は、これまでどれだけの人の尊厳を殺してきたのだろうか。

 いつまでも未熟なつもり、子供のつもり、立場が下のつもりでいたら、人を傷つけていることにも気づかない。きっと、自分が歳を重ねることによって、他の人を萎縮させうるほどに強くなってしまったと気づくことが、大人になるということだ。自分の言葉が子供にとって疑いようもなく正しく、ときに強迫的な意味まで持ちうると気づくことが、親になるということだ。しかし、その心構えができているかどうかに関わらず、年を取ることはできるし、子供を産むこともできる。私にはこのことが恐ろしくてたまらない。

 身近な人間関係だけではない。私たちはもっと大きな構造にも取り込まれている。私たちの生活、例えばチョコレートひとつ手に取るにしても、安い服を買うにしても、労働力を搾取する構造に加担することになる。あなたが今日足を運んだ場所は、目が見えなくても足が不自由でも利用できただろうか。女々しいとか男らしいとか、慣用句化された価値判断を含む言葉を使っていないだろうか。私たちが使っている制度や施設、言葉までもが、排除や差別や暴力性をはらんでいるのだ。

 これらの排除や差別の構造は、私たちにはどうにもならないようで、実は少しずつ変えられる。国会のバリアフリー化が始まるらしい。マジョリティに合わせて施設を作るとき、考慮されていなかったマイノリティは構造的に排除される。私たちは無関心と想像力の及ばなさによって、身体障害者を排除してきたのだと思い知らされる。それと同時に、これから変わっていける可能性に希望を見出せる。もし無関心なままでいたならば、排除に加担し続けていたことになるのだ。

 自分が暴力や差別の構造の中にいて逃れられないことへの気づきがあれば、生きて人と関わることは悲しい。気づけば強者であった、望まず、ただ生まれてただ生きているだけで誰かを踏みつけてしまう構造に投げ込まれて。だからといってただちに自分を悪だと思う必要はない、誰も悪くない。あなたも私も悪くないのだ。それなのに、それでも、普通に生活しているだけで、弱者を踏みつける構造に加担してしまい、無抵抗であることによって構造を維持してしまっているのだ。今自分が誰を踏みつけているのか、足元を見ずに平然と生きていくこともできる。その方が楽だ。楽をしていたいよね、罪悪感も覚えたくないよね、自分のことで精一杯、だから目をつぶってきた。

 自分を責めてほしくはない、ただ、あなたとこの悲しみを共有できたならと思う。そして欲を言えば、どうにもならない暴力性とどうにか変えられる搾取や排除のうち、後者の構造を変えられるのであれば、あなたと共によりよい世界に生きたい。

1 thought on “望まず強者たりうる、構造に投げ込まれて”

  1. 自己の強者性が、気付かぬ内、ただ経年によってすら増して他者との関係性の中で暴力となる。総体として弱者と看做されたとしても、部分としてはそうなり得る。
    その事への自省をただ呼び掛けるだけではなく、意識する辛さと逃避したい気持ちへの共感を以て変えられる部分を変えようと提起されている事。
    凄くハッとさせられ、鼓舞される想いです。

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